桂三枝・春風亭小朝東西落語名人会

武蔵野市民会館大ホール。1階18列8番。林家種平「お忘れ物承り所」(新作)、春風亭小朝「子別れ」、むかし家今松「井戸の茶碗」、桂三枝「誕生日」(新作)の四本。

「お忘れ物承り所」は作者の桂三枝が演じているのを昔テレビで視聴したことがあった。種平が演じているのを見たのははじめてだが、得意ネタらしい。ただ、噺そのものが古くなっている感はいかんともしがたい。今時傘の忘れ物ではねえ。せめて携帯電話ぐらいにしないと。

小朝は枕がうまいなあ。談志ほどではないが、多少毒気のある話をすっと入れ込む腕の確かさ。とはいえ、離婚したばかりで子供のいない小朝に子供の教育云々を言われても説得力はない。談志が「血統なんてない、でなければ小さんの息子があんなに下手なわけはない」と枕で言っても説得力ないのと同じだ。「子別れ」は先代金馬並みの上手さとクサさの同居。ただ金馬が本当にさらりとやってのけるところで、小朝はいかにも「力を抜いてさらりとやっています」という意識を感じさせてしまう。先日の勘三郎も同じだが、そこが意識家のつらいところ。うまく演じるための勘所をわかっているだけに、それをどうしても意識してしまうのだ。こればかりは年を取らないと抜けない臭みだ。

むかし家今松は師匠馬生譲りの枯淡かつ端正な語り口で「井戸の茶碗」。ウェブサイトを訪れて驚いた。根多帳が、国立国会図書館近代デジタルライブラリーに収録されている落語の速記録にリンクされている。ただ勉強家というだけでなくて、インターネットの情報を取り入れることにも熱心なその姿勢に頭が下がる。こういう人の芸を「正統派だけれど地味だ」「華がない」と言うのはつまらない。なるほど、馬生は地味であっても人を惹きつけるものを持っていたし、今松にそれがないことは確かだが、だがそれはそれまでの人生も関係している。本当に紙一重のところなのだ。

三枝の「誕生日」は途中でうとうとするぐらい退屈。だけど観客は大爆笑なんだよなあ。綾小路きみまろの漫談と同じぐらい他愛もない話にみんな笑い転げている。でも武蔵野市民会館大ホールのいちばん後ろの席にはチューブを鼻に入れた本当に八十九十のご老人たちが座っていたぞ。彼ら彼女らは基本的に老人のボケを馬鹿にする話でしかないこの「誕生日」をどんな思いで聞いたのか。