『やけたトタン屋根の上の猫』

新国立劇場公演『やけたトタン屋根の上の猫』に一年生ゼミの学生を連れて行く。学生を芝居に連れて行くときにはいつもナーヴァスになる。つまらなかったらどうしようと思うからだ。芝居を見に行く機会が少ない学生が、たまたま見たものが退屈だったり面白くなかったりしたら、しばらくは芝居を見に行こうとは思わないだろう。あるいは永遠に。

井上ひさしは、観客のなかには芝居をはじめて見るという人たちが必ずある割合で存在する、その人たちが芝居をもう二度と見に行くものかと思うことがないように自分は芝居を書いている、と言っていた。芝居に携わる人が全員そう思ってくれるといいのだが、残念ながらそんなことはない。とくに翻訳ものは、芝居を見に行こうという気をなくさせるものに出会うことがよくある。

もちろん、大半の学生にとっては開演前の劇場の独特の雰囲気は新鮮なものだし、目の前で生身の俳優が演じているという事実に興奮して、こちらが思うほど退屈に感じていないことがあるのも知っている。しかしそうでないことも当然ある。学生が座席で退屈そうにしているのを見るのは、自分の大学の講義で寝ているのを見るよりも身を切られる思いがする。とくに自分もつまらないと思っている芝居だとなおさらだ。

三・四年生のミュージカルゼミの学生であれば、何度か連れて行って慣れていることもあるし、普段映画の名作ミュージカルをいやというほど見せているから、ひどい作品にあたってもそれほど気にならない。もっとも、この前『ワンダフル・タウン』に連れていったときは、そのひどさにさすがに気が引けたけれど。だが今回は一年生なので一切言い訳がきかない。

というわけでどきどきしながら見ていたが、かなりよかったので一安心。見ながら学生の反応もときどき伺っていたのだが、みんな熱心に見ていたようだ。

寺島しのぶの独擅場の前半(第一幕)は、サブテキストの作り込みがまったく感じられず、表面上の台詞のやりとりに終始していたので、どうなることかと暗い気持ちでいた。だが、後半(第二幕)の木場勝己のビック・ダディと北村有起哉のブリックのやりとりで木場が自分のペースでどんどん芝居をするので引き込まれる。

アメリカ演劇研究者としては、南部の匂いがしないビック・ダディなんてあり得ないと文句もつけたくなるのだが、木場の「オレ流」の強引な解釈はたしかに舞台で説得力を持っていた。いつもは自信たっぷりの木場節は鼻につくのだが、今回はそれがかえってビッグ・ダディという人物の臭味にも通じるところがあったのが面白かった。

北村は受けの演技が中心なのであまりあらが目立たなかったが、スキッパーとの「混じりけのない」友情について語るところは空々しく聞こえてしまう。歌舞伎ふうにいえばニンが合っていないということになるのだが、生への情熱を失った現在を演じることはできても、失う前の生への情熱を演じることはできていない。

メイの広岡由里子はいい。バイプレーヤーとしてのこの人の器用さは前々から注目していたが、やり過ぎてクサい芝居になるのも気になっていた。しかし今回は抑えめの演技でメイという人物の屈折した心理が浮き彫りになった。

三上市朗のグーパーはマナリズムに流れすぎ。脇役だから役を作りすぎずに型通り演じようという判断はある程度まで正しいのだが、さすがにウィリアムズは脇役を平板な性格にしておくことはない。グーパーが抱えている鬱屈をもっと作り込めば面白いのだが。

明日は叔父の告別式だ。二週間前に病院にお見舞いに行ったときには、顔つきの変わりようにびっくりもしたが、こちらが名乗ると手を挙げて反応してくれたので、まだ大丈夫だと思っていたのだが。