年末年始に見た夢(暗いです)

『三島の子どもたち』校了から一ヶ月、忙しさに追われて、残った原稿をなかなか片付けることができなかった。とくに英語論集は査読者の提案に従って改稿する作業を私以外の全員が早々に終えているのに、筆頭編者の私だけが締切を三ヶ月過ぎても取りかかることができず、編者である同僚たちに迷惑をかけていた。罪悪感にさい悩まされていたからか、年末年始はあまり夢見がよくなかった。

そんな夢の一つが、亡くなった友人に偶然出くわすというものだった。数十人で満席になるような大衆演劇の小さなコヤの客席の暗がりに、大学生の頃、劇団の仲間だったIがいた。理系の学部を卒業して就職したはずなのに、会社を辞めてまた大学に通い出したという。「まさか文転したの?」と尋ねるとニヤリと顔に書いてあるような独特の笑顔でそうだという。「Iは理系って感じじゃなかったものなあ」と話しかけていたところで目が覚めた。

Iはそもそも今でいうコミュ障の典型のようなやつで、知らない人間には極端にオドオドしていて、社会性がまるでなかった。一度バイト先の塾での新入生募集のビラ配り要員として送り込んだら、経営者から「あいつ(言動が)最悪だな」と思い切り罵られたことがある。しかし、親しい私たちにはむしろ饒舌で、時折放つ毒舌も面白く、私たちはみんなIが大好きだった。唐十郎『愛の乞食』を上演した際には、自作の劇中歌をギターで演奏し、それがオリジナルにまさるとも劣らずともよかった。

大学を卒業する間際で、主宰していた劇団をプロ化することを諦め、後輩たちにその劇団の運営を任せてからも付き合いは続いた。Iは石油化学系の会社に就職し、あんなやつでも社会人が務まるのかとみんな内心驚いていたが、それでもなんとかやっていたようだった。東尋坊だったか、一人旅をして、今にも崩れそうな岩山の道を通ってきた、という絵葉書をもらった記憶がある。だがしばらくすると連絡が絶え、劇団の別の友人から、自殺したという噂を聞いた。

そのIが久しぶりに夢に出てきたのは、多分ひそかに抱いていた(そして二十年近く忘れていた)負い目のせいだ。今から考えると私の劇団運営には大いに問題もあったが、みんなそれなりに楽しくやっていたと思う。このまま十年続ければ、中堅劇団としてなんとか食っていけるぐらいにはなるのではないか、という当時の考えはそれほど間違っていなかったはずだ。だが私は結局日和って、辞めてしまった。Iやそれと同じぐらい社会性のない奴らと一緒に夢追い人を続けていれば、Iが死ぬことはなかったのではないか、いや、今記憶が定かではないが、Iはそもそも私が劇団を辞めるという前に自分からカタギになると言って辞めていかなかったか、と色々思いは錯綜するが、Iの死の遠因に自分の決断が関わっていたのではないかとずっと気が咎めていたのは間違いない。

それにくわえて、コロナ禍で死が突然訪れることにも私は怯えている。死者が自分に呼びかけ、近しい存在として私のそばに再びやってくるのは、自分の死が間近であると意識しているからだ。無性に懐かしくもあり、しかし生と死という無限の距離を隔てているはずのかつての友人が夢に出てきたのはそういうことだろう。

そんな夢をいくつか見ながら、年末の数日でなんとか仕事を片付け、数年ぶりに(直近の)仕事がない状態で正月を迎えた。年初の——日付が変わってから就寝したから、これが初夢だ——夢は、行き先がわかっているのに、その場所になかなか辿り着けないというものだった。

夢の中の私は、スティーヴン・ソンダイムと誰かの対談を聞きに行こうとしている。多分私の勤務先らしき大学だが、東大の文学部棟のようにも思える教員棟がもともとの会場。ところが直前になって、同じキャンパスにある別の建物で行われることになった。この土壇場の変更はきちんと告知されていないが、私は会場が変わったことを(内輪の催しだからか?)知っている。にもかかわらず、なぜか私は新会場ではなく、行き慣れている教員棟に行ってしまう。しかも、エレベーターで自分の研究室のある六階のボタンを押して降りてしまう。(もとの)会場はもっと上の階にあるのに。

六階で次のエレベーターを待つことにするが、やってくるエレベーターは上りも下りもどれも満員で、六階を通過していく。仕方なく階段を使って一階に降り、もう一度エレベーターに乗る。そこではじめて会場変更のことを思い出し、自分の間抜けさ加減にうんざりしながら途中の階で降りて、タイミングよくやってきた下りのエレベーターに乗り換える。エレベーター内は満員で、高齢のアメリカ人カップルがソンダイム対談の会場が変わっているがどこだろうと言っているので声をかけて一緒に行くことにする。私は当日になって会場を変更し、しかも告知も十分でない運営の不手際についてひとしきり説明し、老夫婦に同意を求める。

そのときはじめて、アメリカ人夫婦が私の英語をなんとか苦労して聞き取ろうとしていることがわかる。どんなに発音に気をつけても、アメリカ人以外の発音を聞いたことがないアメリカ人に私の言っていることをわからせることは難しい(イギリス人は割とよくわかってくれる)。日常生活でいつも味わっている落胆——長年英語を読み、聞き、話していても、英語話者と同じように英語を話すことはできない——を夢の中でも味わっているうちに目が醒めた。

五十をとうに過ぎてもこの不全感——世界は自分に厳しくあたるし、どんなに努力しても自分は世界になじむことはない——を俺は抱き続けるのだ、と気持ちが暗くなった。いいかげん、己の器量を知ってそこに安住すればいいのに、今でも私は幼児的全能感をもう一度得られるのでははないかとどこかで思っている。家族もふくめて周囲の人間よりずっと自分は頭がいいのだと思えていた小学校低学年までの記憶を引き摺っている。そのせいで、何かを成し遂げても、それだけで満足できない。もっと先がある、と思ってしまう。いや、本当にそういう思いを抱いて実際に偉業を成し遂げる人々もいるが、もう私は五十過ぎで、これからやれることなど高が知れている。この不全感が嵩じたから私はうつ病になったのだし、今もまたそうなりかけているのかもしれない。

まあ、結局仕事をするしかない。仕事に熱中しているときだけが、この不全感から逃れられる。私にとって仕事は現実逃避なのだ。幸い、書きたいことだけはたくさんある。ひと様に読んでもらえるように書き続けるしか救済の道はない。新年早々、そんな思いを新たにしたのだった。