ピーター・セラーズ『ドン・ジョバンニ』とケネス・ブラナー『魔笛』

今年度初の教授会。前の晩の睡眠時間が足りなかったこともあって終了後ぐったり疲れる。メールと電話連絡、最低限のことだけ片付けて、芸術鑑賞に逃避。明日朝早くおきてやればいいや。

で、最初は『ドン・ジョバンニ』騎士長の場の音楽が頭の中で鳴り出したので、YouTubeでいろいろ見ていたのだった。いやあ本当にYouTubeは便利。そのうちにピーター・セラーズ演出のものを見つける。これは未見だった。というか、セラーズ演出のオペラは過去に一本か二本見ただけであとは食わず嫌いで終わっていたのだ。だがこれは面白い。ドン・ジョバンニとレポレッロが黒人の兄弟という設定で、騎士長はゾンビよろしく顔を緑色に塗りたくり、アイラインを赤くして登場する。

もともと、オペラを現代の中流階級の生活を描いた安っぽいテレビドラマに読み替えるというのがセラーズの演出方針のわけだが、この幕切れの場面ではじめて奏功している、と思った。必然性もなく子供が出てきて目の前の地獄落ちを見つめているのも(ベルク『ヴォツェック』のようだとも言えるが)、裸の男女が出てくるのもいかにも俗流フロイト主義てんこもりの三流ホラーテレビ映画のようで、それはこの地獄落ちの場面にふさわしく思える。というのも、この場面はもともと、ドン・ジョバンニ=視聴者の自我、が、騎士長=無意識から招待されるという構造になっているわけで、視聴者は女たらしでなくても、その原罪意識を揺すぶられるからこそ強烈な印象を残すのだが、それは私たちが三流ホラー映画をくだらないと思いながらつい見入ってしまうのと同じことだからだ。

あまりにも面白いのでAmazonで英語版を注文する。その後ケネス・ブラナー魔笛』を見ていなかったことを思い出して見る。

だめだ。同じように第一次世界大戦を舞台にした『恋の骨折り損』はミュージカル仕立てだったこともあって面白く見られたのだが、この『魔笛』ではその設定が全然生きていない。しかしブラナーはなぜこの時代にこだわるかね。

あとは映画の撮りかたが古くさい。もう開き直ってやっているのだと思うが、回想シーンがスローモーションっていつの時代の映画だよ。

やはり『魔笛』の映画はベルイマンのほうがいいなあ。自分の国の言葉にして歌っているのは興ざめだが、それはブラナーも同じだ。