無断転載ごめんなさい


数年前に刊行した自分たちの論文集の出版年がわからなくなってGoogleで検索していた。私の研究室は知る人ぞ知るものすごい散らかりようなので、書棚に収まりきらず机の廻りや床にばらばらと積み上がっている本の書誌情報を知るには、そのもの本体を探すより電子的に検索したほうがはるかにはやいのだ。なぜ現実世界にはCommand+F(WindowsだったらControl+Fね)とか、SpotlightとかGoogle Desktopとかがないのだろうか。これはギャグではない。論文書きで徹夜が続くと、朦朧とした意識のなかで自動書記をしているわけだが、引用したい文献が手元にないとき、私はCommand+Fをして見つけなくちゃ…と無意識のうちに考えていることが何度かある。はやく脳神経がウェブと直結するようにならないかなあ。


閑話休題。話を続けますと、検索の結果の中に、偶然自分の論文について言及してくれている人の日記を見つける。わーんこんなことははじめてだ嬉しいよお。「知的な守銭奴による読書記録」だから「知的な守銭奴」さんと呼べばいいのだろうか、リンクをクリックしてみたらすでにこの記述は消えていたのだけれど、Googleのキャッシュは残っていたのでここに無断転載する。「知的な守銭奴」さん、偶然この私の記述を見つけて「あれは評価として正しくないと思い直したのだから消したのだ、お前の論文は自分が最初考えたほどたいしたものではないと今は考えているから転載を取り消せ」ということであれば連絡ください。取り消します。


同業者からいろいろ評価されても、人間関係がいろいろあってのことなので、素直に受け取れないひねくれた私だが、利害関係がない人からこういう正当な評価をされるのはすごく嬉しい。こんなマイナーな題材でも、読んでくれている人もいるんだな、と感じられてとても励みになる。でも曾我廼屋じゃなくて曾我廼家です。


2005-08-17

■[study]「声」と「身体」の共同性 01:41


@日比野啓「曾我廼屋五郎の声と身体」(『からだはどこにある?』ISBN:4882028875)から。この論文は発見! という感じで☆5つ。

@谷崎潤一郎によって、「不愉快」で「あくどい」「大阪人」の象徴であると名指されてしまった喜劇役者・曾我廼屋五郎。かれの1930年代は、「前近代的なもの」から「近代的なもの」へ、という単線的な進歩史観で捉えることができない輻輳性をもっている。「声」の共同性は、公共圏をどのレベルで構築するか、という志向性の差異として顕在化するが、そのとき、ラジオ・レコード・トーキーという、新たなテクノロジーの登場が、(そこになかったはずの)歴史的なパースペクティヴを事後的に持ち込んでしまう。

@日比野の記述は、曾我廼屋に貼られたレッテルとしての「時代遅れ」が、いかにかれじしんの実践と乖離していたか・そして、にもかかわらずかれじしんが、どのような思惑のもとから、それを、意識的に・戦略的に引き受けていくかを描き、ひじょうに説得的である。歴史記述のスタイルとしても興味深い好論。


とくに「『声』の共同性は、公共圏をどのレベルで構築するか、という志向性の差異として顕在化するが、そのとき、ラジオ・レコード・トーキーという、新たなテクノロジーの登場が、(そこになかったはずの)歴史的なパースペクティヴを事後的に持ち込んでしまう」という把握は秀逸ですね。書いた本人はそこまでは考えていませんでした。


というのも、あの論文は何を隠そう約五〇枚を三日で書いたもので、もちろん資料集めとかは事前にしていたのですが、自分でもその速さは新記録なのでした。編者の一人のくせに大幅に締切に遅れていて、締切をきちんと守る&論文の質も高い某同僚に大変な勢いで怒られて、すごく焦りながら一気に書き上げたという点で思い出深い逸品です>って逸品の意味間違えているよ、自分。


で、そんなことを自慢しつつ言いたいわけではなくて、書いていたときは神様が降りてきてよいものが書けたつもりになっていたのですが、いまちょうどこれを博論のために英語に直しているわけです。そうすると、まあ時間をかけずに書いた論文にはよくありがちなことだが、あちこちに論理の破綻が見つかったり、もっとうまいまとめかたができたなあという反省をすることしきりなのですよ。でもいったん形ができあがってしまうと、なかなかいじれなくてねえ。


でも「知的な守銭奴」さんのこの把握は素晴らしいのでパクるというかたちにならないように改稿に生かしていきたいです、はい。