徳富蘇峰と久保田万太郎

週刊文春』に連載されている高島俊男お言葉ですが…」に、丸谷才一『絵具屋の女房』に、戦前の日本の知識人は徳富蘇峰ずきと長谷川如是閑ずきの両派に劃然と分れていた、という所論が載っているという。高島によれば「この二人の著名度はだいぶちがう。蘇峰は大著名人である。如是閑はそうでない。特に蘇峰は、一般大衆にひろく名を知られていた。そこが最もちがうところです。/昭和の十年代にまで生きのびた明治知識人の二本柱は三宅雪嶺幸田露伴であるが、大衆に名を知られるという点では、徳富蘇峰のほうがこの二人より上であった。それも単に有名なのでなく、『この人がいれば日本は大丈夫』といった現代の和気清麻呂みたいなたのもしさを、一般大衆はこの人に感じていたようだ。/そのかわりインテリにはきらわれた。丸谷先生は清沢洌の『暗黒日記』を引いていらっしゃる。小生最近たまたま長與善郎の敗戦前後の日記(『遅過ぎた日記』朝日文化手帖)を読んだら、蘇峰をボロクソに罵倒してあった。もうゴロツキ扱い。インテリにとっては、先ず現代の道鏡というところだったようです」。如是閑や漱石について書いてある辰野隆の『忘れ得ぬ人々』についても記述があって、面白そうなので講談社文芸文庫に入っているのを確認して発注。同じ『週刊文春』に連載中の小林信彦の「人生は五十一から」に久保田万太郎のことが書いてあり、これもまた興味深い。「久保田万太郎のきらわれ方も、すごかった。ある文芸評論家の家にいたら、テレビに久保万がうつった瞬間、『おい、テレビを消せ! おれ、そいつが大きらいなんだ!』と叫んだ。そういう人であった。/一九六三年に亡くなった時、古今亭志ん生はお通夜に行かなかった。いわゆる<正統派>桂文楽にくらべて…とあまりに叩かれたからだろう。『代わりに、あたしが先生のお宅にうかがいました』と、志ん朝さんがサラリとぼくに語ったから、まちがいない。/そうした矛盾した性格を、みごとに描いたのが三島由紀夫の『久保田万太郎氏を悼む』という追悼文である。/<幸運にも、私は久保田氏の世間で云はれるいやな面といふものに觸れずに終つた。>というのが書き出しである。三島由紀夫久保田万太郎の<演劇>ボス、その他の俗物的仕事は<みんな影にすぎず、すぐ忘れられてしまふのだ>と断定する。/<そこのは何が殘るか。氏の肉筆の、ごく小さな、かそけき書體と、斷簡零墨の果てにいたるまで、みごとに操を保つた特定の洗練されたスタイルと、その一貫した抒情詩人としての面目だけである。後代の讀者は氏を、市井に隠れた、孤獨で繊細な、すんなりした姿態の、心やさしい靜かな叙情詩人としてしか思ひ描かぬにちがひない。>/三島のこの予言は、四十年後に実現した。」いかにも小林の好きそうな文章だ。
しかし、『週刊文春』が真剣に面白く読めるようになってきたのは、私も年をとった証拠なのかなあ。



昔使っていたベッドも健在。
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