ミスティック・リバー

10月末で有効期限が切れるシネマバウチャーを持っている浜垣姉と一緒に行く。
見終わった直後はその陰々滅々した内容に嫌気がさし、浜垣姉とひたすら悪口を言い合う。

夕食をとりにコテージに行き、ストリングビーンズ、セツアンダンプリング、フライドライスの定番にくわえて、ビーフオイスターソース炒めをチョイス。オイスターソースの味がほとんどしない。ここもニューヨークのチャイニーズレストランの例にもれず、定番ものはおいしいが、あとはなんだかなあ、という部類に属するのだな。

家に帰り、最近夜が遅かったこともあり疲れていたのですぐベッドに入り、夜中にスティームが効き過ぎて暑くて起き、いろいろ考えてみると、すごかった作品だな、という結論に達する。

ミスティック・リバー」は同名のミステリを原作とした作品で、ジェイムズ・エルロイと同様、アメリカの暗部を描き出したものだ。殺人事件とそれに絡む人間模様はさておき、舞台となるニューイングランドマサチューセッツ州、おそらくボストン郊外だろう)のアイリッシュを中心とした労働者階級が、いかに内向きに人生を送っているかをうまく描いていた。ここには大文字のアメリカすらもない。自分たちの街だけ。子供の時からずっと住み続け、内向するがゆえに病む人々。ほとんどの人間がぼそぼそ喋るだけで非常に聞き取りにくい。ローレンス・フィッシュボーン演じる刑事だけが、フラットで明確な英語を話す。もちろんそれは独特の黒人訛りを消そうとしたからであって、イングランドの村社会ではあからさまな黒人訛りは許されないことを示している。

最後は部族社会の掟が社会の法と抵触して、もしかすると部族社会の掟が勝つかもしれない、というところで終る。内向するアメリカ社会の病を、イーストウッドは批判的に描くのではなくただその現状をありのままに映し出している。それがやりきれない。日本映画、とくに北野武の映画にもそういうところがあって、ただし日本の映画だとそれほど反発を感じないのに、自分が属している以外の文化で内向きの姿勢が描かれると敏感に反応してしまう。

今日の写真はポートオーソリティの地下バスターミナルの風景。ちょっと暗くてわかりにくいかな。IKEAへは五番から無料送迎バスが出ている。出発間際になると人が長蛇の列をなし、ぎりぎりに来た人の中には乗れない人も。
portauthority.JPE