「脅迫こそわが人生」

全体に早回しとカットの省略(シーンの最初と最後を削る)を多用してテンポよく撮っており、映像が目まぐるしく移り変わる。とくに冒頭、物語の展開の早さにこちらがついていけず眩暈を覚える。68年の作品とは思えないスピード感。音楽が格好いい。口笛で吹かれるテーマ曲は「東京流れ者」。同じ鏑木創だからか。

ストップモーション(静止画のコマ送り)が何度も挿入され、そこに主演の松方弘樹による解説風の語りが入る、という仕掛けは、当時目新しかったのだろうか。しかしそれらが今見てもそれほど違和感がないのは、そうした仕掛けに効果があると深作が本気で信じて使っているわけではないからである。「まあ使ってみようか」ぐらいの軽い気持ちで使っているから、今見てもくどくならない。仕掛けそのものが古くさくなるのではなく、その仕掛けが最新流行で効果的だと信じる作り手の思い込みが古びるのだな、ということがよくわかった。

人通りの激しい交差点で松方が刺されて腹から血をぼとぼと落としながら歩いていく最後のシーンでは、血糊がピンク色をしていてリアルさにかけ、アメリカ人観客の失笑を買っていた。しかしおそらく、このシーンもまた深作は洒落で撮ってるんだろうと思う。ピンクの血糊がリアルだと観客が信じると思って撮っていることはいくらなんでもあるまい。むしろこの「嘘くささ」を一種の免罪符として、「それがフィクションであるかぎり、娯楽のためにはどんなことも許される」というメッセージを(暴力シーンの多さ等この映画の不道徳ぶりに顔をしかめる)観客に対して送っているのではないだろうか。

かつて「たけしの元気が出るテレビ」で、松方弘樹の「大スターらしくない」小心さや落ち着きのなさは一躍お茶の間にも広まったわけだが、今から振り返ってみると、すでにこの映画でも当然あるべき貫禄のなさが欠落していることが見てとれる。格好をつけていても目はきょときょと落ち着かない。政界の黒幕(丹波哲朗)を強請ろうと公衆電話をかけるシーンでは、大物相手に「おどおどしている演技」をしているのではなく、なぜか知らないが本当に何かに脅えているように見え、見ている私を不安にさせる。
冒頭のキャバレーの便所掃除をしているシーンも面白い。汚物の飛び散る便器を拭き取るのだが、松方がこんなことをしていると思うと複雑な思いがする。深作は松方のこうした「小物」ぶりを十分知ってわざとこんな演技をつけたのだろうか、とすら思う。

終映後、この映画に招待してくれたジャパンソサエティ平野共余子さんとダンサーの中馬芳子さんと食事。ホテルの喫茶室に移って夜中の二時過ぎまで歓談。話題は小津の映画の(無)作為性、Lost in Translationにおけるmisreprresentされた日本、日本のダンスシーンなど。中馬さんは坂手洋二らとの鼎談が日本で予定されているらしい。ニューヨークで行われる予定の「みみず」のリーディングも参加する予定とか。私は肛門期性欲にとりつかれた小津という自説を開陳。
帰りは平野さんにタクシーで送ってもらう。
floorlamp.JPE
今日の写真はIKEAで7.99ドルで買ったフロアランプ。店内の展示で見たときよりアパートにおいた時のほうがずっと映える。これが1000円以下とは絶対に思えない。こんどまたIKEAにいってもう一本買ってこよう。